学びと偏り
人は生涯学び続けていくことのできる動物だと常々思っている。
確か故マイルス・デイビスも言っていたかな、そんなこと。
生涯学び続けていくことができる、と言うことを裏返して言うと学んでも学んでも学び足りてない、と言うこと。
と言うことは文明と言うのは、まぁ、もっと小さく言ってもいい、日々の生活の中で携わっているコミュニティの生活、と言うのはつまりは言うと学び足りてない、どこかに偏りのある人々の集まりなんだ。
もちろん、自分もその1人である。
それはテレビのスタジオでも、国会でも、mixiコミュでも、会社でも、学校でも、どこでも言えることだ。
自分にとっての秩序も相手にとっては偏りにもなりかねない。自分が絶対に正しいと思っていたことに後から偏りがあったのに気付くことだって誰にでもあることだろう。
そして、近年の情報量はもはや無限とも言え、人はそれぞれの立ち居地から自分に心地の良い、悪く言えば都合の良い情報、価値観、やり方、生き方、考え方を集めて自らを装い、アイデンティティを構築し、それを自らの理屈で正と見なすことが可能である。
もちろん、自分もその1人である。
もはやロングテール現象はインターネットだけでなく、ヒューマン・アイデンティティにも言えることではないかとも思う。
民主主義と資本主義の行き着いたところに今がある、にぎやかなもんだ。
さて、ここからが問題だ。
そんな人々の集まりをどうまとめれば良いのか?
これも人それぞれ答えが異なるのかもしれないが、私個人の考えとしては、どうせならこのまま民主主義と資本主義をとことん追求していこう、と思っている。
経営者としても、自由な環境の中でそれぞれがそれぞれのペースで成長していくことを信じ、そんな環境を提供していきたいと思う。
つまり、にぎやかな広場の責任者になることである。
「にぎやかな広場の責任者」、と言うと「ライ麦畑でつかまえて」の主人公の言っていたことに似ていることに気付く次第。。。
思春期をアメリカで過ごしたことが私の哲学にも大きな影響を与えているかもしれない。
この方針は、これはこれで結構楽しませていただいているのだが、実際のところは現実と理想とのギャップに悩まされていることが少なくないことも事実ではある。
このギャップをどうすればもっと縮めれるのか、それともやり方をガラリと変えるべきなのか。
色々と考えさせられている。
広ブロっち♪ d(^-^)